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zoom RSS 【育将・今西和男】 被爆の後遺症を乗り越えて、日本代表選手に

<<   作成日時 : 2015/08/06 12:50   >>

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今のサンフレや…レッズのベースを築かれたといっても過言ではない方です。
ある方からの推薦から、出逢いの機会をいただきました。

『感謝』と… 『絆』の大切さを… 心から感じています。

『育将・今西和男』 特別編

70年前の8月6日午前8時15分、今西は広島市二葉の里の借家の二階にいた。
元々実家は繁華街・薬研堀の隣、東平塚町にあったのだが、東京や大阪も大空襲にやられたために、
そろそろ広島も危ないということで、4月になると半ば強制的に疎開させられていたのである。

当時、今西は4歳。好奇心が旺盛で、二階の窓から顔を出して向かいの家の女の子と
無邪気な口喧嘩をしていた。

B29エノラ・ゲイ号から落とされたウラニウム爆弾コードネーム「リトルボーイ」が、
たった2キロ先の中区細工町上空580メートルで爆発したのは、次の瞬間だった。


「ほいで、ピカーっと光ったんです。私は半袖でしたからね。
左側から腕の内側、これ全部熱で焼けました。

それでも運が良かったのは、家の中にいたら下敷きになったんでしょうけど、
窓にいたんで、はじき出されて、たまたま一階の縁側の畳を掃除していたお袋に引っ張りだされた」

 母親は今西を背負って山に向かって逃げた。
近所には赤ん坊の頃から可愛がってくれたおじさんがいた。

機関車のオモチャをくれたその人は、病気で臥せっていたために逃げられない。
「そこの方の奥さんがね。

うちの母親に『どうか、助けてやって下さい』って道端で頼んでいたのを今でも覚えとります。
4歳のときの他のことは覚えていないけど、原爆のことだけはしっかり、記憶にあるね。

『ごめんねー、子どもがおるから助けられん』て。
もう母親にしてみれば私が背中にいるから、お世話になった人やのに助けることができなかった。

私はまだ幼いから、何が起こったのか全然分からないわけです。
それで逃げ惑う人たちが見えてきたら、みんな血まみれです。

そのときに自分の身体をパッと見たら、やっぱり真っ赤に染まっていて、
初めて怖くなってワーッと泣き出しました。それから死臭。

髪や肉が焼ける臭い。あのすごく嫌な臭いは未だに覚えていますね」

幼い子どもにとって、先行したのは痛みではなく恐怖だった。
母の背中から見た光景は一生忘れることができない。

ガラスの破片が身体中に刺さり、逃げ惑い水を欲しがって、うめいている人々の群れ。
自分自身も血まみれで、気がつけば足が酷く焼けただれていた。

以来、今西の左足の指は突っ張ったままで自在に動かせなくなった。
医薬品は底をついたために救護所で施された治療は、ただ赤チンを塗るだけ。

患部にハエが卵を産み、ウジが這い回り、それをピンセットで取られるのが痛かった。
左腕、左足全体に残ったケロイドも大きなコンプレックスとなった。


 住む家が破壊されたので、家族は矢賀町に引っ越した。
物資もなくて社会的な混迷は続いていたが、母親がミシンを使った裁縫の内職で家計を支えてくれた。

1947年には米国によって被爆者の調査研究機関ABCC(原爆障害調査委員会)が広島に設置された。

ABCCは被爆者に対する治療は一切施さず、
「アメリカにとって重要な放射線の医学的生物学的な影響を調査する」(米国海軍省よりトルーマン大統領に送られた書簡)機関として採血や触診を行なった。

子どもたちは小学校で定期的に裸にされて、レントゲン写真を撮られた。

 今西は足が速く、運動神経も良かったので中学入学時には運動部に入ることを楽しみにしていた。
しかし、ツベルクリン検査で陽性反応が出てしまったことで、激しい運動を断念せざるを得なくなった。

 進学した舟入高校では柔道部に入部した。

中学生時代に近所の国泰寺高校で観戦したサッカーは好きであったが、
サッカー部が授業を妨害するようなガラの悪い上級生の巣窟になっていたことと、
短パンになってケロイドの痕を見られることが、どうしても恥ずかしかったこと。

また左足の不具合が気になり、入部を躊躇させた。


それでも2年生になると、この競技の魅力には抗えなかった。
試合があると必ず観戦に来る今西に対して、1年先輩の野村六彦(後のJSL得点王)が勧誘し、転向した。
とは言え、ほとんど初心者だった。

「ボールテクニックが上手くなる“ゴールデンエイジ”と呼ばれる時期に、
(自分は)ボールを触っていませんからね。技術はない。

それに左足が突っ張って、思い通りにならないことに対する苛立たしさがありました。
左サイドバックを任されたんですが、スペースがあって上がって行っても、その先の仕事ができないんです。

ウイングとしてクロスを上げられない」
 左足をまっすぐ振ったつもりでも、ボールに触れていない。先輩が言った。

「お前、キックが悪いから、これを蹴って(右足の)練習せい」。
ゴールポストに藁を巻きつけて、素足で蹴る練習を課せられた。

皮が破れて血がにじんだ。
しかし、道理もあった。足の甲で正確にヒットすれば痛みはない。

繰り返すことによってミートするポイントが固まっていくのだ。
この練習を続けていくうちに今西は右のインステップが上手いと評価されるようになった。

 母校での初めての公式戦に出場したときは、在校生がたくさん応援に来てくれたが、
それがまた恥ずかしかった。

「観客全員がずっと私のケロイドを見ているように思われて仕方がなかったんです」

 観客が自分だけを注目するとは、ありえない話であるが、
それほどに被爆したことで受けたコンプレックスが根強く残っていた。

中学生時代は激しい運動ができず、神経が優しすぎるほど繊細なうえ、
左足は火傷の後遺症で蹴れない、そんな選手が気の遠くなるような努力を重ねて、
やがて日本代表にまで上り詰めていった。


「だから、私はサッカーに感謝して恩返しをしたいのです」

 サンフレッチェ広島で今西と共に人材育成教育にあたり、
数多くの選手を育ててきた人材育成会社ヒューマックスの木村孝代表は今西の生き方を見て言う。

「今西さんは本当に選手や後輩のために献身的に尽力されてきた。
いろいろな人材担当の方と仕事をして来ましたが、無私の精神の度合いが違うんです。

生きる目的がすごくしっかりしているのは、被爆体験をされているからではないか。
常に死と生を考えて向き合ってきた原体験が大きいと思うのです」


今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。
Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。
サンフレッチェ広島発足時に、取締 役強化部長兼・総監督に就任した。
その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、
クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格 に貢献した。
1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。
2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める。


以上 シェアさせていただきました。

何度が広島でお会いした今西さん。身体全体から漲るものが…

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