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zoom RSS なでしこと長友に通じるもの  城福氏コメント

<<   作成日時 : 2011/07/21 15:26   >>

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絶対のストロングポイントを伸ばす

サッカー女子ワールドカップでのなでしこジャパン優勝は本当に感動的だった。

被災地の方々や日本を元気にしたいという強い意志、日頃の恵まれない女子サッカーのプレー環境を変えるという使命感。

僅かなやっかみや妬みさえも全く入る余地のない彼女たちの姿勢は、世界一という結果以上に伝わってくるものがあった。

 体格ではるかに勝る強豪国相手に、日本のスタイルで戦い抜いた日本選手たちに世界も驚きを隠さなかった。

大会当初は殆ど注目されない中で、格上の女子サッカー先進国を次々に倒して世界の頂点に上り詰めた彼女たちは、さしずめシンデレラともいえる。

 今回の彼女たちは、エリートとして全てを与えられて育てられることが、世界で戦う、いや“闘う”上で絶対的なアドバンテージにはならない、ということを示してくれた。

 では何が必要なのか。


日本サッカー界でのもう1つのシンデレラストーリー、 「長友佑都」の秘密から解き明かしてみたい。


 2007年、佑都は明治大学サッカー部でプレーしていた。 

さらに言えば、大学1年生の時にはレギュラーではなく応援席で太鼓を叩いていた。

その選手が、3年後にサッカー大国イタリアのセリエA(1部リーグ)のACチェゼーナ、翌2011年にはインテル・ミラノへ移籍した。

 インテルホームスタジアムのジュゼッペ・メアッツァでは、8万人の観衆が熱狂し、試合の実況が全世界にテレビやインターネットで配信される。

その世界的なビッグクラブで長友は、昨シーズン終盤に早くもインテルの左サイドバックとして確たる地位を確保した。

今シーズンも新監督の下でレギュラー定着のための練習に明け暮れる日々が始まっている。

 エリート街道とは一切無縁。

中学、高校時代も無名、大学1年生の時には試合時太鼓を叩いていた普通の大学生が、わずか4年後に世界最高峰のクラブでレギュラーを勝ち取ったのは何故なのか。

 私が接して来た多くの選手のなかでも、彼は他の選手とは少しだけ違っていた。

それはほんの僅かな違いに見えることであったが、実は大きな差であった

当時私はU−17日本代表監督を務めていた。

前年(2006年)U−16でアジアのチャンピオンになり、U−17ワールドカップを目指すことになってからは、

ずっとプロのサテライトチーム(若手)と試合を組んでもらっていた。

 その中のFC東京サテライト戦。

格上相手に本気で臨み、優勢に試合を進めていたが、左サイドだけは勝手が違った。

相手チームの右サイドバックに幾度となく突破されてしまう。

駆け上がってくるスピードと頻度に付いていけないのだ。対策として山田直輝(現浦和レッズ)をボランチから左サイドに変えて抑えにかかることを余儀なくされた。

 そのとき、何度も駆け上がって来ていたのが佑都だった。

当時、彼は明治大学3年生だったが、FC東京の練習生として参加していたのだ。

 試合結果は1対1であったが、佑都の印象は鮮明に残った。

 年が明けた2008年1月。私はFC東京の監督に就任した。

時を同じくして大学4年生になる直前の佑都が、明治大学サッカー部を退部し、FC東京に入団してきた。

 明大2年時、サイドハーフからサイドバックにコンバートされ頭角を現していた彼は、当時の北京五輪代表スタッフである江尻篤彦コーチ(明大出身)に見出され、反町康治五輪監督にも期待をかけられていた。

 この頃の佑都はまだ特別な実績を残した訳ではなかったが、北京五輪の意識の高いメンバーと一緒に過ごす中で、「将来海外でプレーする」という目標を持つこととなる。

 その目標を達成するためには、22歳という年齢のうちに、国内最高峰のJリーグでプレーして自分を高めることがベストの選択だ、という明快な目的意識があった。

 近年最強と言われた明治大学での4年生時でのプレーを放棄してプロの世界に飛び込んで来るには、経済的に苦労をかけた母親のことも含め相当の覚悟があった。


彼の覚悟とキャラクターを示す入団時のエピソードをひとつ紹介する。

私がFC東京監督として最初に行ったのは、全選手との個別面談だった。

面談と言っても事前に評価チャートに自己評価やチーム評価を書き込んでもらい、それを話のきっかけとしながら私が選手と話す場を作る、というイメージ。

ここでの目的は、選手のキャラクターを掴むことだった。

 チーム評価は第三者的に評価していたが、自己評価となると性格により様々な違いが見えた。

 自己評価シートは「守備のスキル、攻撃のスキル、スピード、パワー 運動量、メンタリティ」の6項目を、6角形の頂点にして各々1〜10の評価をして線で結び、6角形がどのような形のどのような大きさになっているのかを見ながら話す、という至ってシンプルな内容だ。

 この項目そのものや何の項目のポイントが何点、ということは大した問題ではない。選手自身の内面を探りたかったのだ。

 こういう場合、殆どの選手の自己評価は日本人特有の謙虚さが出る。

即ちやや遠慮がちに丸まった採点をするのだ。

それと同時に、日本サッカー界という土俵の中で自分を位置づけたことがあまりない、という戸惑いも見せる。  

 自分が所属するチームで試合に出るためのチーム内の比較は感覚的にやってきた彼らであるが、

「自分のストロングポイントはどのチームに行っても、もっと言えばどの国に行ってもストロングポイントたり得るのか」という思考は殆どなかったと言っていい。

 したがって、「自分の長所は何となく7、自分の短所は無難な3」という自己評価が多かった。

新監督である私の顔色を見ながら、様子を窺いながらの評価のつけ方であり、会話からスタートするのが常であった。

 そして私が突っ込んで行くと打ち解けてくる、というパターンが多かった。

 そんな中、長友佑都との面談となった。

彼の提出してきたシートを見てちょっと驚いた。

 スピードと運動量、メンタリティに10、パワーに9をつけてきたのである。

因みにどの項目にしろ10をつけてきたのは彼だけだった。


 「おまえ走力10ってことはJリーグでトップクラスってことか」

佑都「はい」

 「でもまだJリーグの舞台でプレーしたことないよな」

佑都「はい、でも自信あります」

 「精神力も10か、覚悟して(明治を退部して)来たんだもんな」

佑都「はい、でもこれからっす」


 彼が付けて来た10が過大評価でないことはプレシーズンのキャンプですぐに分かった。

 しかし、それにしても10をつけてくることは普通のメンタリティであればなかなか出来ない。

彼にとって私からどう見られようか、などという考えはないのだ。


「自分はこうだ、こうありたい、こうでなければならない」という思いがシンプルに、そしてストレートに伝わってきた。


大学時代に右サイドハーフから右サイドバックへコンバートされて急成長した佑都。

だが、FC東京の右サイドバックには徳永悠平という絶対的な選手がいた。


私は、(その頃まだ選ばれていなかった)徳永もまた日本代表に選ばれるべき選手だと思っていた。

そこで、プレシーズンでポテンシャルを確認できるとすぐさま、佑都に左サイドバックとしてプレーすることを勧めた。  

 その時、言い方にメッセージを込めた。

「このチームには徳永がいるから左をやれ」では本人にとってはネガティブな印象でポジションチェンジをさせることになる。

 「日本の歴史を考えてみろ。過去、日本代表がどれだけ左サイドバックで苦しんで来たか。

左サイドバックができるようになれば、お前が目指す次のステージに行くための近道になるし、

日本が長年苦しんできたこのポジションに答えを出すことになるんじゃないか」


 徳永がいるから左サイドバックをやらされると受け取るか、

次のステージ、それは即ち五輪代表でありフル代表をにらんで左サイドバックにチャレンジするのか、

では意味合いが全く違う。

彼の高い目標を面談で感じ取っていたが故に、伝え方で彼の取組みが変わると感じていた。


 伝えた瞬間、彼の目が変わった。

彼は合点がいった時には決まって鋭い目つきになる。

「オレ、やります」。それは左サイドバックとして世界へと駆け上がって行くスタートラインついた瞬間だった。

それからの佑都は毎日、毎日、利き足ではない左足のキックの練習を始めた。


 佑都は、スキル(技術と判断)の中の技術という自分の課題に対しても、フィジカルというストロングポイントに対しても、自分で工夫していた。

 全体練習後の時間をどう過ごすかは選手の成長にとって本当に大きなウエートを占める。

全体的なフィジカルの向上やスキルの中の判断の部分は、我々スタッフが全体練習でアプローチ出来ること。

状況に応じた判断とはどういうことか、をトレーニングの中で、或いは映像で見せながら理解させるように努力していた。

 しかし、スキルの技術の部分は、本人がチームの全体練習で何を意識し、

個別にやるトレーニングをどう充実させていくかが大事になる。
 

本人の意識次第でどうにでもなるのだ。

 佑都は「自分には何が足りないか」に関してはスタッフのアドバイスに謙虚に耳を傾けるが、

「どうすればいいですか」と聞くことはなかった。

時にはアシスタントコーチやフィジカルコーチを捕まえ、時には後輩とペアを組んで自分で工夫していた。

それはFC東京を入団してから去るまでの全ての日々変わらない彼の取組みだった。


 こうして佑都は2008年シーズンで開幕デビューを果たす。

その1か月後、Jリーグ第6節、東京ダービーのヴェルディ戦で

ワールドクラスのフッキ(現在ポルトガルリーグのFCポルト在籍)を完封しただけでなく、

決勝点にも絡む大活躍が認められ、一躍フル代表に招集されることとなった。


 そこから北京五輪出場、フル代表としてワールドカップアジア最終予選出場、南アフリカワールドカップ出場と一挙に駆け上がっていくことになる。

「世界では通用しないっす」

 北京五輪にはフル代表との掛け持ちのような状態で参加した。

しかし3戦全敗し、失意の中帰国した佑都。

帰国直後に監督室で話を聞いた時のことだ。

 彼は悔しそうにこう言ったのだった。

 「ナイジェリアやアメリカの奴らにちょっと気が引けたところがありました。

 フィジカル。フィジカルをもっと高めないと世界では通用しないっす」


 勿論彼は技術が十分と言っている訳ではない。

自分が世界に伍して行くために足りないところを技術で補う、という思考もあっただろう。

しかしそれでは世界を目指している全世界の何十万、何百万人もの若手選手と同じになってしまう、

特別なスキルがある訳ではなく、体格にも恵まれない自分は下手したら埋もれてしまう、と感じていたのだろう。



 足りないものを考えるより絶対のストロングポイントを持つこと。

それは、相手がヨーロッパやアフリカのどんなアスリートであろうと負けないフィジカル(パワー、アジリティ、走力等)を研ぎ澄ますことだ、という自分なりの判断があったのだ。

 彼の口から「課題はフィジカル」と聞いて、私は瞬時にそう感じた。

「いや、お前は技術をもっと磨け」とは一切言わなかった。

彼の課題に対してはトレーニングやゲームの中でアプローチして進歩する手助けは続けるが、

最終的にどうやって山を登っていくかは、彼自身が決めることだからだ。


 彼はすでにフル代表選手としてアジア予選や世界との戦いを見据えていた。

どんなプレーをして次のステージに進んでいくかが自分の中でイメージ出来ていたのだ。

「Jリーグの中でポイント10ではなく、あの自己評価チャートの規格外、即ち12や13を目指さないといけない」。

そう自分に言い聞かせているように思えた。


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